大 白 法平成26年5月16日付
  
          総本山第34世 日真上人の御事蹟
 
 第二百五十回遠忌を迎えるに当たって
 
  本年七月二十五日・二十六日の両日、総本山において第三十四世日真上人の第二百五十回遠忌法要が奉修されます。ついては、日真上人の御事蹟について掲載します。
 日真上人は御登座以前に奥州を巡教され、御登座後に御弟子の覚林日如師を仙台の布教に遣わされ、布教が進展する中、法難を受けるにいたります。この仙台法難についても併せて紹介します。

日真上人の略歴
 日真上人の御車蹟は、総本山第四十八世日量上人が著わされた『続家中抄』の「日真伝」に概略紹介されています。
 『続家中抄』によれば、日真上人は字を「完孝」と称され、日号も初めは「日賢」と称されました。また阿闇梨号を「江戸阿闇梨」、院号を「守要院」と号されました。
 日真上人は、正徳四(一七一四)年、江戸在住の医者荒川氏の子息として誕生され、幼くして総本山第二十八世日詳上人を師として出家得度されました。天性の博識・宏才で、学問を好み、書道にも秀でられていました。
 元文二(一七三七)年十月八日、二十四歳の時、『緇素標破問答』を著わされ、翌元文三年七月五日には『房総遊記』を記されています。


 日真上人は、長年にわたり千葉の細草檀林において教学研鑽に励まれ、宝暦三(一七五三)年には細草檀林の伴頭となり、翌宝暦四年には五十代の化主となられました。
 宝暦六年十一月七日、四十三歳の時、十五代の学頭となられ、総本山の蓮蔵坊(学頭寮)に入寮し、御書の御講義をされています。
 宝暦九年の春には、奥州の末寺に巡教され、その折、山川平兵衛の三男、後の総本山第四十二世日厳上人を弟子とし、また強信の賀川権八宅を訪れた際には、権八と「次に生まれる子が男子ならば出家させて弟子とする」との契約を結ばれました。その子が、後の総本山第四十三世日相上人です。

 明和元(一七六四)年九月二十七日、五十一歳の時、総本山第三十三世日元上人より唯授一人の血脈を御相承され、第三十四世の御法主となられました。
 翌明和二年三月七日、仙台法難が起こり、仙台の弟子・信徒を心配された日真上人は、当時学頭であった遠妙院日穏師(後の総本山第三十五世日穏上人)を代理として仙台へ派遣されています。
 そして、仙台法難が惹起してから四カ月後の同年七月二十六日、日真上人は五十二歳をもって御遷化されました。
 日真上人の御弟子の中には、総本山第四十世日任上人、第四十二世日厳上人のほか、仙台法難で活躍した覚林房日如師等がいます。

仙台法難について
 仙台法難は、江戸中期、大石寺の僧・覚林日如師の奥州弘教に端を発しています。
 覚林日如師は元文五(一七四〇)年、奥州磐城黒須野(福島県いわき市)に生まれました。千葉の細草檀林に学び、日真上人の弟子となりました。
 日真上人は、御登歴以前から、盛んに各地を巡教されましたが、奥州には殊に力を注がれ、たびたび足を運ばれていました。
 明和元(一七六四)年、日真上人より仙台日浄寺に遣わされた覚林日如師は、仙台の強信者、賀川権八(子息は後の絵本山第四十三世日相上人)の請いにより仙台方面の弘教に専念することとなり、中沢三郎左衛門、冨沢惣右衛門らが建てた庵室を拠点として、月六回の講義を行いました。
 覚林日如師を迎えてから折伏の機運は勢いを増し、信徒たちは寺院の建立を切望しました。当時は厳しい宗教政策が敷かれ、新寺建立は非常に困難な状況でありました。しかし賀川権八らは、大石寺の末寺である上行寺や妙教寺と相談の上、当時、廃寺となり上行寺の支配下にあった本道寺の移転復興を志し、その願書を作成することにしたのです。
 その矢先の明和二年三月七日、山川平兵衛(子息は後の総本山第四十二世日厳上人)宅にいた覚林日如師は、突然押しかけてきた役人によって詮議を受けました。このとき甚六、市郎兵衛、治三郎三名の信徒が連行され、翌八日には覚林日如師、賀川権八、中沢三郎左衛門が捕らえられ入牢となりました。
 その後、仏眼寺、日浄寺、妙教寺の檀信徒は一人残らず評定所に連行され、取り調べを受けました。邪宗の僧や役人の讒言により、仙台藩は、覚林日和師などを邪教の徒として殲滅することを謀ったのです。
 急を聞いた日真上人は、当時学頭職にあった日穏上人(遠妙院)を仙台の日浄寺へ派遣されました。日穏上人は、日浄寺に二十日余り逗留し、その間、藩の奉行所へ直談判に赴かれ、不審を糾弾すると共に仙台の信徒たちを激励されました。しかしその直後、日真上人の御遷化によって、帰山を余儀なくされたのです。
 奉行所は、これを機と見て、主だった信徒には不当な重罰を与え、覚林日如師を仙台藩の流刑場である網地島へ流しました。仙台に残された信徒たちは、覚林日如師の身を案じ、島での逼迫した生活を支えるべく、御供養し、信心の赤誠を尽くしました。
 また、網地島の人々の中にも覚林日如師の高徳にうたれて帰依する者も現われました。特に阿部喜惣右衛門、利喜蔵父子の信心は堅固でした。やがて島のいたる所で唱題の声が聞こえるようになりました。
 寛政三(一七九一)年四月、仙台藩においては八代伊達斉村が藩主に就いた祝賀による特赦が行われ、覚林日如師は実に二十七年目にして赦免されました。
 赦免後、覚林日如師は大石寺に登山し、修行に励んだ後、生まれ故郷の黒須野の妙法寺の住職として迎えられました。
 文化元(一八〇四)年、仙台の洞ノロにおいて再び法難が起こり、加藤了助などが入牢となりました。これを案じた総本山第四十三世日相上人は、同年秋、信徒を激励するために、生まれ故郷の仙台に御下向されました。
 文化九(一八一二)年、覚林日如師は再び網地島を訪れ、翌文化十
(一八一三)年十月二十四日、仙台の洞ノロにおいて生涯を閉じました。
 やがて法難は、幕末を迎えると共に次第に沈静化していきました。
 先に紹介した通り、この仙台法難惹起四カ月後に日真上人は御遷化されました。しかし、日真上人に布教を命ぜられた覚林日如師をはじめ縁ある御僧侶や法華講衆は、日真上人の御遺志のままに、時の御法主上人猊下の御指南を仰いで力強く布教に邁進されました。これを思うとき、日真上人の御高徳が偲ばれます。