大 白 法平成30年3月16日付
  
          総本山第31世 日因上人の御事蹟
 
 第二百五十回遠忌を迎えるに当たって
 
  
日因上人の略歴

 日因上人の御事蹟は、御自身の御著述や、総本山第四十八世日量上人が著された『続家中抄』の「日因伝」に概略が紹介されています。
 日因上人は、字を「覚応」、日号を最初「日相」と称され、院号を「経道院」と号されました。
 貞享四(一六八七)年十月十七日、陸奥国磐城黒須野(福島県いわき市泉町黒須野)の地に誕生されました。
 日因上人御自筆の覚書によれば、日因上人を懐妊後、尊母の胎内から常にお経の声が聞こえたことから、尊父がこの子は在家にいるべきではないと言われたこと。さらに出生後に尼僧が来て、「この子は父母の宝ではない。出家させ寺院の子とすべきである」と言われたことが記されています。
 日因上人は、七歳の時に地元黒須野の妙法寺に上られました。体格・力量共に優れ、学問を好み昼夜を問わず読書に精励され、宝永二(一七〇五)年、十九歳の時に、妙法寺十五代の本因坊日完師を師として出家得度されました。
 宝永五年、二十二歳の時、上総の細草檀林(現在の千葉県大網白里市・遠霑寺)に入林され、天台三大部等の教学を研鑚されました。
 在林中の享保十三(一七二八)年三月、上総広瀬村(千葉県東金市広瀬)に後生山本城寺を創建されています。日因上人が著された『本城寺縁起』には、開創に至るまでの詳しい経緯が記されており、新寺建立が禁止されていた江戸時代にあって、たいへんご苦心されたお姿が拝されます。
 檀林において蛍雪の功を積まれた日因上人は、享保十七年、四十六歳の時、細草檀林の三十七代の化主(能化)となられました。
 元文三(一七三八)年五月、日因上人は総本山第十代学頭に補せられ、塔中・蓮蔵坊に入られています。
 二年後の元文五年十一月十三日、御年五十四歳の時、総本山第三十世日忠上人より唯授一人の御付嘱を受けられ、第三十一世の御法主となられました。
 延享二(一七四五)年五月には、塔中・東之坊を建立されています。
 同年、日忠上人・日因上人の教化を受けて、本宗の信仰に深く帰依された備中松山藩主・板倉勝澄公が、大石寺五重塔建立資金として千両を御供養されました。なお、板倉勝澄公は、寛保二(一七四二)年頃の入信で、延享元年三月には伊勢亀山藩から備中松山藩に転封となっています。(備中松山藩は現在の岡山県。伊勢亀山藩は現在の三重県を中心とした地)
 翌延享三年四月六日、日因上人は寺社奉行に五重塔建立許可の申請を行い、認可後の同年六月二十八日、五重塔の釿始めの儀(起工式)を奉修されています。
 その後、三年の工期を経て、寛延二(一七四九)年六月、ついに五重塔が完成し、日因上人の大導師のもと開眼供養の法要が、六月十二日から三日三晩にわたって盛大に奉修されました。(五重塔建立に関しては、一昨年に連載した「五重塔―意義と歴史―」も併せてお読みください)
 なお、大石寺五重塔の建立に当たっては、四千二百両もの巨額の費用が充てられています。
 寛延三年八月二十五日、六十四歳の時、日因上人は総本山第三十二世日教上人に血脈を相承され、東之坊に移られました。
 そして、明和六(一七六九)年六月十四日、御年八十三歳をもって安祥として御遷化されました。

御著述について

 日因上人はその御生涯において、非常に多くの御著述を残されました。
 現在、総本山には『数珠之事』『寿量品得意抄』『日有上人御物語聴聞抄佳跡』『宗旨建立三四会合抄』などの宗義書、『新田・南条両家之事』『五重宝塔建立由来』などの記録書、さらには板倉勝澄公への御消息など、多くの御著述が所蔵されています。
 また、日因上人は、金沢法難を堪え忍んだ加賀法華講衆に対しても激励の御消息を多数認められており、現在、その多くが金沢の妙喜寺に伝えられています。(金沢信徒については本紙前号六面に掲載)
 そのうちの一つ、総本山第四十七世日珠上人の尊父である小川貞性に与えられた宝暦四(一七五四)年十月十七日の書状(十箇条法門)には、
「一結講中異体同心未来迄も相離れ申す間敷候。中に於て一人地獄に落ち入り候はば講中寄り合いて救い取るべし。一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし。其後北国中の同行乃至日本国中一閻浮提の一切衆生をも救い取り申すべく候。衆生無辺誓願度と申すはこれなり」
とあり、現在に至るまで、法華講中の軌範ともいうべき、御慈悲あふれる御指南を拝すことができます。
 平成三十三年の御命題達成に向け、折伏弘通に邁進する平成の法華講衆も、この日因上人の御指南を心肝に染め、異体同心の団結をもって精進していきましょう。