大 白 法令和4年4月16日付
  
          総本山第27世 日養上人の御事蹟
 
 総本山第二十七世日養上人の第三百回遠忌法要が六月三日・四日、総本山において奉修されるに当たり、日養上人の御事蹟を掲載します。
 
  総本山第二十七世日養上人の御事蹟については、第四十八世日量上人の著された『続家中抄』の「日養伝」に概略が記されています。
 日養上人は寛文十(一六七〇)年に出生されました。生地や俗姓は残念ながら伝えられておりません。
 幼少にして、総本山第二十二世日俊上人を師として出家得度し、道号を「学応」、後に「本法阿闍梨」「広宣院」とも称されました。
「本法」との阿闍梨号は、御師範である日俊上人の院号(本法院)に因んで名付けられたものと拝されます。
 その後、日養上人は勝劣派の学問所である上総の細草談林(現在の千葉県大網白里市)に進まれました。
 檀林の修学課程としては、天台学の基礎である「名目条箇部」・「四教儀集解部」、天台大師の『法華玄義』(玄義部)・『法華文句』(文句部)の各部を、合計で二十年ほどかけて学びます。次いで講師として、各部を二カ年ずつ担当します。そのため、檀林化主である文句部の能化となるためには、約三十年もの長い期間、研鑚を積むことになります。
 日養上人も入檀以来、砥礪切磋して昇進を重ね、宝永五(一七〇八)年頃には伴頭(能化に次ぐ立場で檀林の運営を統括する。玄義部の講師)となられました。
 そして、二十四代能化であった寿命院日宥師(日宥上人)が、宝永五年春に総本山第二十五世の御法主上人として御登歴されるに当たり植林を退出された後を承けて、日養上人が檀林の二十五代能化に就任されました。
 宝永六年十一月、日養上人は江戸下谷常在寺(現在は東京都豊島区にある常在寺)の六代住職として入院されました。日養上人が文句部能化として著された講義テキストによれば、宝永七年夏に『法華文句』第七巻の講義を終えたことが記されており、常在寺赴任後も、しばらくは檀林化主として在任されていたようです。その後、後任の化主には同年中に堅樹院日寛師(後の第二十六世日寛上人)が就任されています。
 常在寺は江戸表における本宗屈指の名刹で、慶長十(一六〇五)年、第十六世日就上人によって上野に開創されました。その後、元和五(一六一九)年に下谷(上野不忍池付近)の地に移転した後、寛永十五(一六三八)年に第十七世日精上人によって再建されました。
 常在寺のすぐ近くには加貿藩の江戸藩邸があり、加賀藩の武士たちは常在寺への参詣を機縁として次々に入信し、本宗の信仰が金沢の地に弘まっていくこととなりました。
 常在寺の六代住職となられた日養上人が、金沢の有力信徒・福原式治に与えられた多くの御指南は、福原氏の記録(『秘釈独見』)によって現代まで伝えられています。
 また、常在寺の日養上人のもとで、甲斐国(山梨県).の工匠・石川氏父子(随本師・文孔師)が剃髪得度されています。子の文孔師は、後の第三十二世日教上人です。
 なお、詳しい時期は不明ながら、日養上人は富士都下之坊の住職も歴任されたと伝えられています。
 享保三(一七一八)年三月、総本山では、第二十五世日宥上人が退隠されることとなりました。檀林における能化昇進順では、日養上人(二十五代)は日寛上人(二十六代)よりも先でしたが、
『続家中抄』の「日寛伝」に、
「師年長たるを以て養公辞譲して師を推して先に進ましむ」(日蓮正宗聖典 九五七n)
とあるように、日寛上人が五歳年長であることから、日養上人は自ら謙譲して辞退され、日寛上人の御登座を慫慂されました。
 それから三年目の享保五年一月、御当職日寛上人から常在寺の日養上人のもとへ、大石寺への晋山を促す書状が届けられました。
 これに応じて入山なされた日養上人は、同年二月二十四日、日寛上人より血脈相承を承け、総本山第二十七世の御法主上人として登座あそばされました。
 日養上人の御在職中の御事蹟のうち、主なものとして、客殿の再建、五重塔建立の準備、青蓮華鉢造立の御供養、などが挙げられます。
 このうち五重塔建立の契機について、第三十一世日因上人著の『宝塔建立之由来』には、
「宝塔建立の由来は、宥師寛師養師の三師御機宜しき時御内談遊ばされ、元金文字金五拾両ずつ御宝蔵に御納め置く者也」
とあり、日宥上人・日寛上人・日養上人の御三師が内々に話し合われ、宝塔の建立資金として合計百五十両を用意されたことが記録されています。
 御三師は年齢が近く、また細草檀林でもほぼ同じ時期に修学・勤講されて、さらに日宥上人、日養上人、日寛上人の順で檀林化主に就任されていることから、修学時代から親密な間柄であったことが拝されます。
 そして、御登座から四年目となる享保八年六月四日、日養上人は御年五十四歳を一期として、安祥として御遷化あそばされました。