大 白 法令和7年7月1日・8月1日付
   
第三百回遠忌大法要(9月18日・19日)を迎えるにあたって
  
          総本山第26世 日寛上人の御事蹟 上
 
 本年は、総本山第二十六世日寛上人の第三百回遠忌にあたります。九月十八日・十九日に総本山において日寛上人第三百回遠忌大法要が奉修されることから、御報恩の意義より日寛上人の御事蹟について、「一、中興の祖・第二十六世日寛上人」 「二、日寛上人の御生涯」の二回にわたり掲載します。

 中興の祖・第二十六世日寛上人

 日寛上人は、江戸時代中期の享保三(一七一八)年、総本山第二十六世の御法主上人として登座されました。その御事蹟は多岐にわたりますが、とりわけ教学の大綱を『六巻抄』にまとめられたこと、また、信仰修行の面では常唱堂を建立され、昼夜にわたる唱題の実践を御指南されたことなど、宗門の興隆と教義の大成に不朽の功績を残されたことから、本宗の中興の祖と仰がれています。

 令法久住・広宣流布のため『六巻抄』を著される

 『六巻抄』とは、日寛上人の代表的御著述で「三重秘伝抄」「文底秘沈抄」「依義判文抄」「末法相応抄」「当流行事抄」「当家三衣抄」の総称です。
 『六巻抄』を執筆されるに至った動機は、御師範・総本山第二十四世日永上人の命により、正徳元(一七一一)年、四十七歳の頃から、総本山において日蓮大聖人の御書の講義を始められたことにあります。
 正徳三年の秋、御影堂において大聖人の『開目抄』を講じられていた日寛上人は、
 文底秘沈(一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり)」(御書 五二六n)
の句に至った際、そこに示された深奥な文意は、到底、簡略な講義によっては説明できないとお考えになり、「三重秘伝抄第一」の稿を起こされました。
 これを端緒として「当家三衣抄第六」までを次第に草案されますが、その後、唯授一人の血脈を受けられた御境界から心血を注いで再度手を加えられ、最終的に六巻すべてが完成したのは、享保十(一七二五)年六月のことでした。
 日寛上人は、畢生の書『六巻抄』について、
「此の書六巻の師子王あるときは、国中の諸宗諸門の狐兎一党して当山に襲来すといヘども敢て驚怖するに足らず。尤も秘蔵すべし、尤も秘蔵すべし」(富士宗学要集 五−三五五n)
「偏に令法久住の為なり」(六巻抄 三n)
「此れは是れ偏に広宣流布の為なり」(同 七九n)
などと仰せられました。
 すなわち、当時の日蓮宗各派の邪義をことごとく破折し、大石寺にのみ伝わる正法正義を宣揚されたのが『六巻抄』であり、この書を付弟・第二十八世日詳上人に託され、令法久住・広宣流布という目的のため後世の弟子に贈られたのです。

 御書の正しい理解は極理の師伝による

 大聖人の御書は甚深微妙の御法門を説き顕わされたものであるため、その御聖意に達することは容易ではありません。事実、日寛上人の時代は大聖入滅後四百年を経て、他の日蓮門下の学者が出そろい、様々な邪義を打ち立てていました。
 例えば「末法相応抄」で日寛上人は、『報恩抄』に説かれる御本尊に関する重要な教示である、
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六n)
との御文について、
「其の謂れ消し難し、故に多解有り」(六巻抄一四三n)
と、不相伝の他の日蓮門下の解釈が学者ごとにまちまちであり、さらに、そのいずれもが迹中化他・色相荘厳の釈尊像をもって本尊としていることを厳しく破折されています。御本尊の意義を説かれた御文について正しく理解できなければ、信仰や修行そのものに誤りが生じることは言うまでもありません。
 これに対して日寛上人は、
「この御文は人法体一の深義を示されたもので、『本門の教主釈尊』とは迹中化他の色相荘厳の仏ではなく、末法出現の日蓮大聖人の御事であり、人法体一である故に本因下種の教主たる大聖人をもって御本尊とすべし、ということを説かれた御文である(趣意)」(同一四八n)
と、御相伝に基づく当家独歩の正義を明らかにして、後世の弟子が間違った解釈に惑わされて御本尊に迷うことのないように御示しくださいました。
 第二祖日興上人が『遺誡置文』に、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝し」(御書一八八四n)
と仰せのように、まさしく極理の師伝に基づいて大聖人の御聖意を説き明かし、本宗の教学を緻密に体系化されたのが、『六巻抄』に代表される日寛上人の御教示なのです。

 第三百回遠忌にあたり御報恩の信行を

「吾人幸にして大法の教化を蒙るも、根性貧窮下賤能く解し奉ること難し、しかるに上人を俟ってその幾分かを窺望することのできるは、身に余る恩徳でなければならぬ」
(大日蓮 大正十四年十月号)
 これは日寛上人の第二百回遠忌に際し、御登産前の第六十五世日淳上人が述べられた御言葉です。
 大聖人の下種仏法は難信難解の大法であり、凡夫の我意・我見による考えでは、御書を正しく拝することはできません。大聖人以来の血脈を相伝される御法主上人の御指南を通じてこそ、初めて御本仏の御聖意に適う正しい信行学を貫くことができます。ゆえに私たちは、日寛上人をはじめ御歴代上人より蒙る御恩徳をけっしてゆるがせにしてはなりません。
 本宗では、御歴代上人の五十年ごとの回忌に際して御報恩の法要が営まれますが、日寛上人については「寛師会」(祥月命日の法要)が毎年執り行われ、その御徳が絶えず顕彰されています。こうした日寛上人の御高徳を偲び奉るとき、第三百回遠忌にあたる本年は、その御事蹟と御指南を拝し、信行学をいっそう深めていくべき時であるといえます。
 幸いにして、本年九月十八・十九日には総本山で「日寛上人第三百回遠忌大法要」が奉修されます。また、御事蹟を詳しく紹介した「日寛上人記念展」が大石寺宝物殿において開催されるほか、日寛上人の教えをより学ぶことのできる『日寛上人御述作集』の発刊など、種々の記念事業が執り行われる予定です。
 この意義深き本年、挙って総本山へ登山参詣し、自行化他にわたる折伏・育成の講中活動を充実させていくことこそ、日寛上人に対し奉る最善の報恩行となることを肝に銘じて、ともどもに精進してまいりましょう。

  
 総本山第26世 日寛上人の御事蹟 下
第二十六世日寛上人の御生涯
御出生から細草檀林まで


 第二十六世日寛上人は、寛文五(一六六五)年八月七日、上野国前橋(群馬県前橋市)の武士の家柄である伊藤氏のもとに誕生し、市之進と名付けられました。
 九歳で御母と死別し、以後、継母に養育され、十五歳の時に江戸に出て、旗本の館に勤仕されます。
 十九歳のある日、緑あって江戸下谷の常在寺に参詣し、そこで総本山第十七世日精上人の御説法、を聴聞して信伏し、出家を志されました。市之進の将来を嘱望する主君は職を取らせることを惜しみましたが、同年の暮れ、ついに自ら髻を切って常在寺に馳せ参じ時の住職日永上人(後の総本山第二十四世)を師として得度され、道号を覚真と賜りました。
 以後、六年間にわたり日永上人に仕え、厳格な修行と宗学(大聖人の御法門)の研鑚に努められます。
 この間、総本山大石寺にもたびたび登山し、第二十二世日俊上人・第二十三世日啓上人に師事されました。また元禄元(一六八八)年には日永上人の会津・実成寺への転任に随従されています。そして二十五歳の元禄二年春、上総(千葉県)の地にあった日蓮門下勝劣派の学問所・細草檀林に進まれました。
 細草檀林は春と秋に約百日間ずつ開講され、修学内容としては天台教学を四つの部に分けて順次学び、通常は満学までに二十年前後を要しました。
 入檀後の日寛上人は、二、三カ月の静養を必要とするほどの重病に臥しながらも刻苦勉励され、十五、六年を経た四十歳の頃、檀林の全課程を修了されました。
 その後、講主(教授する立場)となり、最終的に宝永七(一七一〇)年・四十七歳の頃に、檀林の最高位である化主に就任して、堅樹院日寛と称されました。

夏間における宗学研鑚 大石寺での御書講義

 細草檀林における学問は、あくまでも天台教学が中心で、日蓮大聖人の御書が学ばれることはありませんでした。
 第二祖日興上人は、
「御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」(御書一八八四n)と誡められ、さらに第三祖日目上人も、
「今年も(中略)欠日無く御書を談じ候い了んぬ」(歴代法主全書一−二二二n)
と仰せのように、古来、宗門では、何よりも御本仏日蓮大聖人の血脈相伝の仏法を深く体することが肝要とされてきました。
 よって大石寺の僧侶は、檀林の休講期間である夏間に御書を学び、また、そのための法座が盛んに行われました。
 すなわち、日寛上人が檀林在籍中に著された『序品談義』(九座)、『寿量演説抄』(十九座)等は、檀林の合間における宗学研鑚の御姿を今に伝えるものです。
 そのようななか、師の日永上人は、日寛上人の満学と同じ頃の宝永二年、大石寺草創の往時をしのび、日目上人の住坊であった蓮蔵坊を学寮として再興されました。その六年後の正徳元(一七一一)年、日永上人は檀林を退院された日寛上人を召して学頭に任じ、御書の講義を命じられました。なお、この時から日寛上人は大弐阿闍梨と号されています。
 日寛上人の御書講義は、正徳元年の『法華題目抄』を嚆矢に、『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』など、主要な御書を網羅されたものでした。
 江戸末期に記された大石寺文書には、「台家学校の儀は裏に相用い、祖書学寮を以て表向仕り候」とあり、日永上人・日寛上人により復興された大石寺における御書の講学が、いかに重大事であったかが拝されます。

 御登座中の主な御事蹟

 日寛上人は享保三(一七一八)年三月、第二十五世日宥上人より血脈の付嘱を受け、総本山第二十六世の御法主として登座されました。在職中は、梵鐘の新鋳、また御影宝前の青蓮鉢の造立など、総本山の整備に心を砕かれました。
 御登座より三年を経た享保五(一七二〇)年二月、第二十七世日養上人に法を付嘱して後董を託され、御自身は再び学寮に入って御書の講義や御著述に専念されました。しかし、三年後の同八年六月に日養上人が御遷化されたため、再び猊歴に登られます。
 この頃の主な御事蹟としては、畢生の秘伝の書である『六巻抄』の再治(前回で紹介)と、石之坊および常唱堂の建立が挙げられます。
 石之坊は、享保九年、御開山日興上人が説法されたと伝わる説法石の地に建立されました。
 その謂れについて日寛上人は、
「されば諸天も石劫打やめて嫡々付法の三大秘法のたたせ給ふ大いしの寺を守らせ給へ、また我かくれ家石之坊をも守らせ給ひ、広宣流布の事をわすれ給ふな」
と仰せです。すなわち、三大秘法の随一・本門戒壇の大御本尊が在す大石寺と石之坊とを諸天が未来永劫に守るように、そして人々が広宣流布に向かって精進することを忘れぬように、との深い御意により建立されたのです。
 次に常唱堂は、日寛上人が遷化される直前の享保十一年八月初旬に竣工しました。
 この常唱堂においては、「常題目衆」という六人の僧侶が詰め、昼夜不断の唱題に励まれたといい、
「ふじのねに 常にとなふる堂たてて 雲井にたへぬ法の声かな」
の御歌が知られています。
 日寛上人は、『六巻抄』や『御書文段』などを執筆して学事の面で本宗の正統教学の大成に尽力されましたが、それのみならず、自ら信行具足の題目を常に唱えるとともに、他にも不断の唱題を勧め、多くの人々が「南無妙法蓮華経」を唱えて、広宣流布が実現することを強く願われたのです。

 最晩年の御化導と御遷化

 さて、享保十一(一七二六)年正月、江戸下向中の折、常在寺・常泉寺・妙縁寺において、『観心本尊抄』の御説法を行われました。
 御年六十二歳に及び、すでに御自身の臨終が近いことを悟られていた日寛上人は、最終日に次のような御言葉を遺されました。
「かの歴什三蔵は臨終に際し、自身が訳した経典に誤りがなければ、火葬後も舌が焼け残るであろうと述べ、実際にそのとおりになったという。(中略)私は、ふだん蕎麦を好むゆえ、臨終の際にも蕎麦を食し、題目を唱えてこの身を終えるであろう。もしそのとおりになれば、私の説いた法門は一言一句に至るまで、大聖人の御意に寸分たりとも違わぬものと知りなさい(趣意)」
以後、三月に総本山へ戻られてからは、健康がすぐれない日々が続きましたが、この頃の御様子をしのばせる逸話が、いくつか伝えられています。
 一つは、ある日、湯上がりの折、病により痩せ細った自身のすねに蚊がとまるのを御覧になり、
「痩せこけて 力なくとも予も負けじ いざこい蚊どの すね押しをせん」
と詠じられたことです。これは、名聞名利に執着して呑み食らう他宗謗法の僧を蚊になぞらえられ、身体が衰えてもなお、諸宗を破折せんとの気概を示されたものです。
 また五月下旬には、ひそかに学頭日詳上人を招かれ、第二十八世としての法灯を託されました。
 六月に入り病状が深まると、これを憂えた弟子たちは薬石の助けを得られるよう何度も勧めましたが、「生死宜しく仏意に任すべし」と言ってこれを固辞されました。その内意について日寛上人は、やがて本宗に迫る三類の強敵による法難を、自身の病魔として現われさせたのであると明かされています。
 さらにこの頃には、五重の造営資金を御遺状とともに残されるなど、将来の僧俗と未来広布を慮られた数々の御慈悲あふれる御振る舞いが拝されます。
 その後同年八月、日詳上人をはじめ大石寺山内の僧俗に、別れの挨拶を済ませられました。十八日の深夜、「吾れ当に今夜中に死すべし」と仰せになった日寛上人は、侍者に蕎麦を打たせ、これを七箸召し上がった後、笑みを浮かべて「鳴呼面白きかな寂光の都は」と述べられました。
 そして八月十九日の辰の刻、御本尊に向かって一心に合掌して題目を唱えられるなか、身体少しも動ぜず、半口にしてなお眠るがごとく、安祥として御遷化されました。
 本宗の興学布教と発展に尽瘁れた日寛上人は、第九世日有上人とともに本宗の「中興の祖」として仰がれ、毎年の「寛師会」などを通して、その智徳兼備の御高徳は今日に至るまで敬仰され続けています。
 本年、第三百回遠忌を迎えるに当たり、私たちは日寛上人への御報恩のために、尊い御生涯をかけて示された広宣流布に対する強き願いと情熱をしっかりと受け継ぎ、より一層、信行学の三道に精進して、今まで以上に折伏弘通に励んでまいりましょう。