大 白 法平成30年9月1日付
  
          総本山第19世 日舜上人の御事蹟
 
 第三百五十回遠忌法要を迎えるに当たって
 
  十一月五日・六日の両日、総本山において総本山第十九世日舜上人の第三百五十回遠忌法要が奉修されるに当たり、日舜上人の御事蹟について掲載します。

日舜上人の略歴

 日舜上人の御事蹟は、御自身の著された『書附』や、総本山第四十八世日量上人が著された『続家中抄』の「日舜伝」に概略が紹介されています。



 日舜上人は慶長十五(一六一〇)年に御誕生されました。御出生の地については詳らかではありません。
 若くして京都において出家得度され、道号を「学優」と称されました。その後、寛永六(一六二九)年頃には江戸に移られ、御登座前の総本山第十七世日精上人が住されていた法詔寺や上行寺(現在は日蓮宗)に寓居されたと伝えられています。
 法詔寺は、敬台院殿(総本山大石寺の大檀那。徳川家康公の曽孫で、阿波徳島藩の初代藩主・蜂須賀至鎮公の正室)が、母・峰高院殿の菩提のために建立した寺院で、日精上人が初代住職となられていました。
 日舜上人は出家後、早くに総本山大石寺に参詣されたものと思われますが、この頃には、日精上人や法詔寺二代住職の日感師(総本山第十六世日就上人の弟子)、及び敬台院殿との関係がたいへん深かったことが判ります。
 また、日舜上人は寛永六年二月、弱冠二十歳にして、中ノ郷(現在の東京都墨田区吾妻橋)の地に妙縁寺を再興されています。
 宗門における古刹の一つである妙縁寺は、太夫阿闍梨日尊師が正和元(一三一二)年に開いた妙因寺の寺跡を移したもので、長らく廃寺の状態となっていたところを再興されたものです。
 さらに日舜上人は、上総国の沼田檀林(現在の千葉県東金市大沼田にあった)に遊学されています。檀林では天台等の法門を学ばれると共に、教授としてそれらの学問を講じられており、布教と興学の両面にわたって修行を積まれました。御自著の『書附』によれば、そのような遊学の身にありながらも、江戸との間を常に往復され、日精上人より御依頼を受け、法詔寺における法務を勤められています。
 寛永十八年夏、日舜上人は江戸下谷(東京都台東区下谷)の常在寺(現在は豊島区南池袋に移転)において、日精上人との間に師資の契りを結ばれました。
 そして、四年後の正保二(一六四五)年十月二十七日の早暁、総本山において日精上人より金口嫡々の血脈相承を受けられて、第十九世の御法主上人となられました。
 御在職中、総本山の十二角堂を創建されています。十二角堂は堂宇が十二角形であることからその名がありますが、別名、開山堂・位牌堂とも称されます。御開山日興上人以来の御歴代上人の御位牌が安置されています。
 日舜上人は八年の御在職の後、承応元(一六五二)年、総本山第二十世日典上人に法を付嘱され、総本山の近くの富士宮市下条にある下之坊に御隠居されました。



 御退座後の明暦四(一六五八)年六月十一日、日舜上人は日蓮大聖人・日興上人・日目上人の御三師の御申状を書写されています。
 また、万治二(一六五九)年、日舜上人は、『五人所破抄』(日興上人と五老僧との立義の相違をまとめたもの)の注釈書『五人所破抄見聞』を書写されています。
 万治三年九月二十八日には、本證坊日仲師を願主として富士上井出(静岡県富士宮市上井出)の地に本證寺を開創されました。この時に日舜上人より日仲師に授与された御本尊が、現在も総本山大石寺に蔵されています。
 本證寺はその後、享保年間に常陸国牛久(現在の茨城県牛久市)に移転し、さらに文政四(一八二一)年、妙縁寺十八代・恵了坊日脱贈上人により、常陸国筑波郡(現在の茨城県つくば市)に寺跡を移し、現在に至っています。
 また、日舜上人は寛文五(一六六五)年十一月、隠居所とされていた下之坊を中興されています。
 このように、日舜上人は御生涯のうちに三力寺を開創・復興されており、大法興隆に御尽力されたことが拝されます。
 そして、寛文九(一六六九)年十一月十二日、日舜上人は下之坊において、六十歳をもって安祥として御遷化されました。