大 白 法平成28年5月16日付
  
          総本山第14世 日主上人の御事蹟
 
 第四百回遠忌を迎えるに当たって
 
  総本山第14世 日主上人の御事蹟 本年八月九日・十日の両日、総本山において第十四世日主上人の第四百回遠忌法要が奉修されます。ついては、日主上人の御事蹟について掲載します。

時代・背景

 日主上人(一五五五年〜一六一七年)の御生まれの頃は、戦国時代の真っただ中でした。その後、織田信長が台頭し、日主上人御在職中には、本能寺の変、秀吉の関白就任などが起こり、世の中が大きく変わっていきました。
 日主上人は、そのような激動の中で大聖人様の仏法を護り、後世に伝えられました。

御誕生から修学まで

 日主上人の御事蹟は、第十七世日精上人が著された『富士門家中見聞』(家中抄)の「日主伝」に概略紹介されています。
 『家中抄』によれば、日主上人は、弘治元(一五五五)年に誕生されました。俗姓は下野国の一色氏で、父の河内守は館林の城主でした。代々、上杉氏の家臣であり、のちに小田原の北条氏に属しましたが、引き続き館林に居住していました。
 父の一色氏は、子息(のちの日主上人)を出家させようと願い、関宿にあった神宮寺に登らせ修学させました。
 永禄十(一五六七)年、幸島(茨城県猿島郡)の本宗僧侶・妙行が富士大石寺に参詣した際、御当職であられた総本山第十三世日院上人が、妙行に対して「付弟を定めようと思っているがそれにふさわしい人物がいない」と仰せられたので、妙行は「神宮寺にたいへん賢く、能力の優れた小僧がいます」と申し上げました。すると日院上人は「できることならその小僧を弟子にしたい」との御意向を示されたので、妙行は神宮寺に趣き、当時十三歳の小僧であった日主上人を日院上人の御弟子としました。日主上人は、大石寺の末寺である下野国平井(栃木県平井町)の信行寺に、しばらくの間、預かりとして置かれ、修行に励まれました。程なくして、富士大石寺に登られた日主上人は、長老であった塔中の寂日坊と久成坊の二人の指南によって、当家甚深の御法門を研鎖されました。
 さらに上総国東金の田間村にあった談所(学問所=大沼田檀林の前身)に入所して、天台三大部等を学ばれました。


 御登座と御事蹟

 大石寺に帰られた日主上人は、天正元(一五七三)年の春、第十三世日院上人より御付嘱を受けられ、第十四世の御法主となられました。そして同年四月には、奥州柳目完蔵坊の常住御本尊を中将日伝師に授与されています。また、この年の八月十九日には、大石寺において霊宝虫払を修されたことが『霊宝虫払日記』に記されています。なお、霊宝虫払については、七年後の天正八年七月七日にも修されています。
 在職十五年にして、日主上人は下野金井(栃木県下野市)の蓮行寺に移られました。そして、文禄五(一五九六)年九月一日、第十五世日昌上人に法を付嘱せられました。
 その後、日主上人は蓮行寺と奥州を往き来して布教せられ、ついに下野国ヲフゴに法華堂を建立し、寿量寺と称されました。また、元和元(一六一五)年には、磐城滑津(福島県西白河郡)に本法寺を創建されています。
 以後、日主上人は蓮行寺において老病を養われ、晩年を過ごされました。
 元和三(一六一七)年八月五日、御遷化を前に、日主上人は日昌上人に御自身の法具や世具等の一切を送られており、そのことを記された『遺物送り日記』が総本山大石寺に蔵されています。そこには、
「一、御しやうそく 三色、
一、御本尊 三ふく、
一、御経 壱部、
一、御聖教 ありのまゝ」
とある他、小羽二重、惟子、頭巾等のお召し物、金銭、留香炉等の御道具類まで事細かに記されています。
 そして十三日目の同月十七日、日主上人は六十三歳の尊い御生涯を閉じられました。御遺骨は総本山に納められ、御葬儀が営まれました。
 なお、日主上人の御著述としては、
『日興跡條々事示書』『霊宝虫払日記』(天正元年八月十九日)『霊宝虫払日記』(天正八年七月七日)『御相承受授証』『遺物送り日記』『大石寺図絵』等が挙げられます。
 また、日主上人が書き写された『二箇相承』の貴重な写本も総本山に蔵されています。