大 白 法平成30年6月16日付
  
          総本山第5世 日行上人の御事蹟
 
 第650回遠忌を迎えるに当たって
 
  日行上人の略歴

 日行上人の御事蹟は、総本山第十七世日精上人が著された『家中抄』の「日行伝」に概略が紹介されています。
 『家中抄』によれば、日行上人の尊父は陸奥国三迫加賀野(宮城県登米市中田町石森字加賀野)の地頭・加賀野氏の出身で、尊母は総本山大石寺の開基檀那・南条時光殿の息女です。
 また、尊母の伯母(時光殿の姉)・蓮阿尼は、加賀野の地に隣接する新田(宮城県登米市中田町宝江新井田)の地頭・新田重綱に嫁ぎ、第三祖日目上人の尊母となられました。新田氏は下野国下都賀(栃木県下都賀郡)の豪族・小野寺氏の家系で、奥州新田と伊豆仁田郡畠(静岡県田方郡函南町畑毛)に領地を有しており、一族からは第四世日道上人が出られています。
 日行上人の生年や幼名は明らかではありませんが、父の加賀野氏が一時期、所領を離れて鎌倉に住んでいた際に時光殿の息女を妻とし、その後、日行上人が御誕生されたと伝えられています。
 幼少の頃より出家得度を志されていた日行上人は、若くして総本山大石寺に登られ、日道上人の御弟子となられました。
 その後は第二祖日興上人にお給仕し、御法門を習学されました。
 元徳二(一三三〇)年十月十三日、日行上人は日興上人より「加賀野宮内卿(日行)」と認められた御本尊を授与されています。
 元弘三(正慶二・一三三三)年二月、日興上人が御入滅。同年十一月十五日、日目上人が天奏上洛の途中、美濃の垂井(岐阜県垂井町)で御入滅されました。日目上人はこの一カ月前の十月、第四世日道上人に法を付嘱されています。
 延元二(建武四・一三三七)年、日行上人は日道上人を開基と仰ぎ、総本山塔中・本住坊を創建されています。
 同四(暦応二・一三三九)年六月十五日、日行上人は日道上人より唯授一人の血脈相承を受けられ、総本山第五世の御法主上人となられました。御付嘱に当たっては、同日、日道上人より日行上人に対して御本尊が授与されており、その御本尊の脇書きには「上奏代日行は日道の弟子一が中の一なり」と認められています。「上奏代」とは、日行上人がかつて日道上人の名代として天奏を遂げられたことを示します。
 この他にも日道上人は、正中二(一三二五)年九月二十三日付の日興上人の御本尊に「卿公日行は日道第一の弟子なり之を与へ申す」と加筆され、日行上人に授与されています。
 興国三(暦応五・一三四二)年三月、日行上人は上洛天奏され、また武家に申状を奏されています。現在、総本山御大会をはじめ、末寺の御会式において捧読される日行上人の申状は、この時のものです。
 日行上人の御在職期間は約三十年とたいへん長きにわたりましたが、この間、大石寺境内地の安堵にたいへん御腐心されています。
 さらに、所縁の陸奥国や下野国に弘教され、正平十五(延文五・一三六○)年には下野国金井(栃木県下野市小金井)に法華堂(後の蓮行寺)を建立されています。また奥州に下向され、日目上人御建立の森(宮城県登米市迫町森)の上行寺、新田(同市中田町宝江新井田)の本源寺(現在正信会が占拠中)の興隆を願い、お弟子方を住職として任命し、折伏弘通に心を砕かれました。
 正平二十(貞治四・一三六五)年二月十五日、日行上人は第六世日時上人に血脈を相承され、四年後の同二十四(応安二)年八月十三日、安祥として御遷化されました。